自由民と奴隷

紀元前8世紀から7世紀、つまり今から2700年~2800年前のギリシャ、人口が数千から数十万の独立した都市国家群が緩やかな共同体状態にあった「ポリス」と言う政治状態の中、最大のポリス(都市国家)だったスパルタの市民生活と、ギリシャの奴隷制度から、現代の我々の生活を考えてみようか。

ギリシャ都市国家群の中で最大の人口、40万人を擁したスパルタ、スパルタ教育の語源ともなったこの都市国家の市民生活は、その名を免れぬ厳しいもので、軍国主義的体制は厳しい教育によって支えられ、生まれてから死ぬまで国家への忠誠が唯一最高の目標となるよう、幼少の頃から教育されていた。

男の子が生まれると、不健康児は捨てられ、検査に合格した子供だけ育てられるが、6歳までは家庭で厳しく育てられ、20歳までは年齢別に集団を組み、残酷なほど厳しい体育や軍事訓練を受け、20歳以後も軍事を専門にしていたので、公共生活の時間が多く、私生活の余地は少なかった。

高い教育は施されず、実生活に必要な読み書き程度が教えられたが、音楽と踊りは重要視されていたようだ。

また女子は更に凄まじい話だが、健康な子供を生むために激しい体育教育を受けていたが、不健康児を生めば捨てられることを思えば、こうして健康な子供を生み、捨てられないようにすることが、せめてもの母親の愛情だったかも知れない。

その体育は殆ど全裸に近い格好で行われ、競技種目は競争、相撲、円盤投げ、槍投げなどが含まれ、今日家庭の主婦がたしなむ普通の仕事、つまり家事や裁縫、布織りなどは全く教えられなかったが、こうした仕事は奴隷の仕事だったのである。

そして母親ともなれば、自分の息子が勇敢に戦って戦士することを、何よりの名誉と考えるようになっていたと伝えられている。

どうだろうか、こうして見ると市民であることが、奴隷より厳しい生活になっているようにも思うし、自由であることの原則が軍事的思想によって自由選択による不自由の選択になっているようにも見えるが、こうした考え方は全体主義的とも言えるもので、現代でも程度は違っても同じことが存在している。

そして奴隷については、ハンムラビ法典によれば、自由民と賎民、奴隷の区別が見られるが、一般に古代オリエントでは中堅的な自由民の区別が確立しておらず、奴隷と言う身分も不明瞭なことから、古代ギリシャ以来の極端な見方とすれば、自由なのは君主だけで、その他は全て奴隷と言うべきものだったかも知れない。

ギリシャの奴隷の起源については、ミケーネ時代に既に多数の奴隷、特に女の奴隷が存在していたようで、これがそれから暫く後の「暗黒時代」に入ると、農耕、牧畜、家事のために少数の奴隷が用いられるようになったが、これは定義として作男か下男、下女に近いものだった。

紀元前6世紀に入ると、商工業の発達に伴い、奴隷の売買が盛んになったが、他方では民主化の改革が行われ、市民の身分が確立されたから、自由民と奴隷との区別化が明瞭になり、本格的な奴隷制社会が出現してきた。

このような奴隷はしかしどうして奴隷になったかと言うと、奴隷の子供として生まれた場合、捨て子を奴隷として育てた場合、海賊にさらわれて奴隷として売られた場合、戦争の捕虜、などの理由で奴隷にされたのであるが、基本的にはギリシャ人を奴隷にするのは不当だとされていたことから、奴隷の大多数は小アジア、黒海方面の異民族が殆どだった。

そしてこうした奴隷の種類だが、国家が所有する「国有奴隷」は公的な雑務を主な仕事とし、その他は家僕と婢女のような、私的雑務を主な仕事とする個人所有の奴隷、手工業奴隷、鉱山奴隷だったが、この内鉱山奴隷が最も過酷で悲惨なことになっていた。

紀元前5世紀中頃のアテネでは、全人口30万人の内、市民とその家族が17万人、在留外人3万人、奴隷が10万人だったとされているが、裕福な人は別として中流市民は、1人から2人の奴隷を使役しながら自分でも労働するのが普通で、これが紀元前4世紀頃になると、数十人の奴隷を使った工場などが現れてくる。

また同じ都市国家でもスパルタではアテネのような形態、普通売買での奴隷は殆どおらず、その代わりに多数の被征服民がヘロットと言う農業奴隷にされていて、収穫の半分を主人に納めていたが、ローマではこうした傾向がもっと顕著になり、ギリシャよりもはるかに規模の大きな奴隷制の農業経営が発展し、これは共和政末期にしばしば対外戦争を起こし、多くの異民族の捕虜を奴隷としたからで、この頃ギリシャのデロス島などは、奴隷売買の市場として大いに栄えていたのである。

奴隷と言っても、歴史的に見てみると、面白いことが分かる。
それは古代ほど奴隷と自由民の差が少ないことだ。

また一般家事や手工業、農業はこうした意味からすると、もともと奴隷の仕事だったような面があり、その地位こそ低くくても今の私たちが考えるような、ムチでバシッと言うような扱いが全てだったとは考えにくい部分がある。

古代エジプトでは、奴隷たちにファラオからビールとパンが振舞われたと言われているし、少なくとも紀元前8世紀頃では、スパルタ市民より奴隷のほうが、実務としては楽だったのではないだろうか・・・。
最も価値観として厳しい責任を誇りとするなら、楽をしている者は屈辱的と映るのかも知れないが・・・。

それにしても、あの厳しいスパルタでさえ、主人に収穫の半分を納めればよかったのか・・・。
現代の日本人も収入の殆ど5割近くを税金で取られていることを考えると、我々はスパルタの奴隷と変わらないのかも知れず、その上に自由市民として選択した不自由の中にあったりするのかも知れない。

自由民であるか、奴隷であるか。
古代から今に至っても、それが我が心の内、自分がどう思うかの問題と言うことになるのだろうか。









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