我、徳を以て世に太平を開かん。

地平線に近づくにつれ薄い水色となった晴天、ただ一人小高い丘の上に立つ青年の姿があった・・・、見渡す限りの田畑は荒れ果て、呼吸が聞こえぬ遠くの村からは、朝げの頃を過ぎても煙一本立ち上がらず、ただカラスの鳴き叫ぶ音が響き渡っていた。

「ああ・・何と言うことだ」青年はつぶやき、僅かに下に視線を移す・・・、そこには踏まれて葉が片方ちぎれた、名もなき草が、小さな・・・本当に小さな白い花を付け、それが強い風に腰を折ったように虐げられながら、風の合間を縫ってその身を起こしていた。

何故だ・・・どうしてこうも人は争わねばならない・・・その先に何がある。
一人一人が平和で豊かに暮らしたいと思うのはことの理だ、しかしそうした己が意思のために、他というものに警戒を抱く、まだ来ることすらない変化を今から恐れ、それに備えようとする・・・その結果が疑いとなり、争いの雲を呼ぶ。
力によって人を支配する者は必ずより大きな力によって支配を受ける、また力は永遠のものではなく、老いた者は衰え、若き者がやがてそれを乗り越えていく。

力によって服従させられた者は恨みを持って言葉に従い、身近な者を殺された者はやがてその矛先を返す、その連続する恨みの渦はいつ途絶えるとも知れず、この世に禍をもたらし、民は疲弊し、こうして人の世を暗いものにする。
「力ではこの世に太平などもたらすことはできない・・・・、我、徳を以てこの世に太平を開かんとす・・・」
青年は強い風に向かい、一歩足を踏み出しどこまでも青く広がる「天」を仰いだ。

この男、その名前を「丘」あざなは「仲尼」(ちゅうじ)と言い、今から2500年ほど前の中国で「仁」を説き、それを形態として現す「礼」をして国を治めることを世に問うた者であり、孔子その人である。

孔子が現れた時代は「夏」「殷」「周」と続く王朝の最後「周」がその力を失い、やがて来る戦国時代の幕開けの時期で、こうした周王朝の没落から次の「秦」に至るまでの混乱期にあたり、約500年の前半を春秋時代、その後半を戦国時代としているが、国が荒廃し、あちこちで下が上を殺してのし上がっていく、下克上が始まりかけていた紀元前551年(推定)に、孔子は生まれたとされている。
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春秋戦国時代には、力を失って支配力が弱まった周に変わって、周王朝時代の諸侯がそれぞれに国を作り、争っていたが、その各国は富国強兵を競って才能ある者を登用しようとし、また古い身分制度も崩れ、庶民階級にも立身出世の機会が与えられた。

こうした背景から、人々は学問に励み、さまざまな思想家や策士達が現れ、互いに論戦し、自身の意見を採用してくれる君主を求めて各地を遊説したが、彼らを保護し育成する君主も現れ、この相乗効果で「諸子百家」と呼ばれる思想家群が現れ、中国思想の黄金期となっていったのである。

諸子百家の内、もっとも早く現れたのが孔子の始めた「儒家」と呼ばれるもので、その教義を「儒教」と言ったが、春秋時代末期に現れた孔子は、親に対する「孝」と兄に対する「悌」と言う家族単位の道徳から始めて「仁」(人、倫理としての愛)と「礼」(人の守るべき秩序)に基づいてその身を修め、家をととのえることによって国を治め、しいては天下の平和を実現できると主張した。

これは明らかに政治と倫理とを相関させた説であり、彼は始め魯(ろ)に仕えて政治を改革しようとしたが失敗し、諸国を巡り持論を説いたが、結局用いられることなく魯に帰り、「詩経」「書経」「春秋」などの古典の整理と弟子の教育に専念したが、孔子の言動を弟子たちが集めたものが「論語」である。

またこうした孔子の思想は、実は孔子のオリジナルと言う訳ではなく、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで続いた「周」王朝の政治姿勢からも同じ思想が見られ、孔子は周王朝時代の「礼政一致」を基に、周王朝時代の思想的復活を目指したと言うのが、初期の姿勢だったのではないだろうか。

ではその周王朝時代の思想とはどのようなものだったかと言うと、歴史上最も古い「封建制度」を引いていたとする「周」はしかし、現実には主に同族の者を諸侯として地方要所に配置し、支配させていたもので、これは血縁による団結力であって、周王朝と諸侯の関係は君臣関係と言うよりは本家、分家の関係に基づくものだった。

したがって中世ヨーロッパや日本における封建制度とは明確に異なるもので、ヨーロッパにおけるフューダリズムは血縁ではなく土地をめぐる契約であり、この場合は君主と個人との契約を指し、こうした形態は日本でも同じだが、農耕経済的には封建制度に見えても、政治的には周の政治形態は封建制度とは区別されるべきものだ。

こう言う背景から周では、政治的に家族、親族をその秩序によって支配することが、重要な政治基盤となっていったことは確かで、「礼政一致」はまさに欠くことのできない思想だったのである。
そして礼政一致とは、こう言うことだ・・・、周が滅ぼした「殷」王朝は信仰として、自分たちの氏族のみを守る神として自然神や祖先神を祭祀し、その神意を占って政治を行ったが、これを「祭政一致」と言う。

これに対して周王朝では氏族の利害を超えて正義の味方をするものとして「天」と言う至上神を崇拝した・・・、従って周の人は道徳的実践としての「礼」を重んじ、礼によって政治を行った。
これを「礼政一致」と言うのだが、礼には精神的な面と儀式的な面があり、後には儀式的な面が重んじられるようになり、これが発展して法律制度が整備されるようになる。

そして孔子が目指した周の礼政一致の思想原理はこうだ・・・、天とは、唯1部族のみを守護するような神ではなく、正義の味方として人の行為の善悪によって賞罰を行う支配者であり、この「天」が人格化したものこそ天子であり、行いの善悪によって、またその徳の高さによって天意すらも動かすことができる・・・。
道徳の実践的表現である「礼」を重んじ、そして政治にこの道徳が形になったもの、「礼」を一致させることで、王は天子と一致し、天すらも味方につけることができ、その結果国は安定し、民の暮らしも豊かになる・・・と言うものだ。

天と神・・・、こうした考え方は後に日本でも大いに広まる考え方で、戦国乱世では「天」が時の覇者を決める・・・従って覇者になれなかった者は、天がそれをはじいたのであって、もともと天意に見合う器ではなかったからだと考えられた。

最後に、NHKの「天地人」・・・上杉謙信は武田信玄とは最大のライバルだったが、甲斐の国に塩が不足したとき、信玄に塩を送る話は有名だ・・・。
隣国では将軍様の独裁で人民が苦しんでいる、またその将軍様も最近病気になったようだとも聞く・・・、世界第2位の経済大国だと言うなら、この際将軍様にお見舞いでも送ってはどうか・・・いくら敵対していても、その相手が病気になったのを喜ぶようでは、天意など得られるものではなく、何か送ったことで自身がへりくだったと思うようでは「器」も小さい。

武力に対して武力では余りにも芸が無い・・・・
こう言う世界だからこそ徳を説き、礼を知らしめる国が1国くらいあっても良いのではないか・・・。
孔子の「礼」は敵も味方も関係ないものだったように思うが・・・どうかな。
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