2009/04/26
月の光は暖かい
今では田植えも5月になったが、その昔・・・と言っても30年か40年ほど前だが、普通田植えは6月だった。山の中の小さな田んぼまで両親や祖父母達は苗を植え、さすがに家に置いておく訳には行かなかったのか、幼い私たち兄弟も荷物と一緒に一輪車に乗せられて運ばれ、家人たちが田植えをしている間は好きなように山を走り回っていた。
おそらく年齢にして5歳とか4歳だった私は、昼の弁当が待ちきれず、いつも両親に時間を聞いていたが、いつしか太陽の上がり具合で時間が分かるようになり、それからは昼になるまで我慢するようになって行ったが、山には本当にいろんな生き物がいて、キジなども間近に見ることができたし、面白いのは狐だった。
狐はもし自分が追われるとしたら、相手の人間がどのくらいの距離なら追いつけるかで、人間との距離を計っていて、その距離が保たれていれば逃げない・・・、だから相手の人間によって狐に近づける距離は違うのだが、子供の場合はその距離が格段に近くて、ほんの数メートルまで大丈夫なのだ。
またこうした自然の生き物は、大体いつも同じ時間に同じ場所を通るから、毎日顔を合わせていると、たまに遅れて出てきたときなどは「今日はどうしたんだろう・・・」と少し心配になったりするものだが、この狐昼間は鳴かないが、夜になるとクヮン、クヮンとか、まるで女の悲鳴のようにギャーとか鳴くので、子供にとっては少し恐い生き物でもあった。
そしてこの頃の田植えが今より遅かった理由の一つは、苗を「せっちゅう苗代」と言って、水田に水を張り、そこで土の代を作って種から苗を育てていたからだが、もう一つは今のようにトラクターのような農業機械が無かったからで、例えあったとしても山の中の田んぼでは使うことができなかったからだ。
またこうした田舎ではそもそも炭焼きと農業、林業しか仕事が無く、女たちは秋になると富山平野や加賀の大規模な農家へ出稼ぎに行って現金収入を得ていたことから、こうした時期に稲刈りが重ならないよう、田舎の米は10月10日頃からしか実らない「晩生」(おくて)が栽培されていた。
この晩生の代表的な米が「ササニシキ」だが、このササニシキと早稲(わせ)と言って早く実る米を交配してできてきたのが「コシヒカリ」で、現在ササニシキは宮城県や北関東の1部でしか栽培されていない。
一般に早稲品種は晩生と呼ばれる品種より味は悪いとされるが、寿司飯などは早稲品種が向いていると言う話もある。
そしてこうした時代、大規模な農家は大体早稲品種を作っていて、家でも母や祖母は8月の終わりごろになると、出稼ぎに行き、家は男だけになるのだが、炭焼きをしていた父がいないときは、祖父と私たち幼い兄弟だけで暮らさねばならないことがあった。
約1ヶ月くらいだろうか・・・毎年のことなので慣れてくるのだが、それでも子供心には本当に帰って来るのかが不安なものだった。
9月も終わり頃・・・祖母と母は両手に抱え切れなくて、背中にまで背負って梨やブドウ、珍しいお菓子や饅頭、私たちが喜びそうなオモチャなどを手に帰ってくるのだが、私たちには盆や正月と同じようにこうした時期が一番嬉しい時期でもあった。
そしてこれから自分の家の稲刈りが始まるのだが、ああした時代のことだ・・・コンバインなど無く、せいぜいがバインダーと言って、刈り取って縛っていくだけの機械で刈り取り、それを集めて「はざ」と言う長い横木が8段ほど等間隔に並んでいて、それをまた木の長い丸太で固定した乾燥用の、平面やぐら状のものに掛けていくのだが、このように忙しい時期は子供といえども容赦なく使われるのが普通で、特に「はざ」に稲を掛けるのは身軽な子供のほうが向いていて、下で両親や祖母が放り投げた稲の束を「はざ」に足を引っ掛けて両手で受け取り、綺麗に並べていくのは私の仕事だった。
朝早くから稲刈りは始まり、夕方それが集められ、それを「はざ」掛けするのだが、大体終わるのは夜の9時・・・遅ければ11時くらいまでかかってこの作業は行われ、やがて小学校へ通い出した私は学校から帰ると毎日この作業が待っていた。
夕方「はざ」のてっぺんにいると地上から4メートルくらいだろうか・・・両足をうまく横木にはさんで稲を受け取っていると、赤とんぼがまるで目の前を泳ぐように飛んでいて、飼い猫がみんながいると嬉しいのか、用も無いのによじ登ってきて稲穂でじゃれて遊び、その頭を撫でながら作業に精を出す・・・、10月のことだからやがてとっぷり日が暮れると丸い大きな月が出てくる。
おかしなもので月の光は暖かい・・・それまで少し寒かったのが、僅かだが背中に温度を感じ、暗くて殆ど勘で続けられていた作業が少しだけ楽になるのだった。
私は農作業が大嫌いだったが、こうした時間だけは何となく、幸せと呼べるものを感じていたような気がする。
この稲の乾燥が終わるのは10月の末から11月の始め頃、天気が悪ければ12月、雪が降る中で稲を取り込んだときもあったが、取り込まれた乾燥後の稲は脱穀機にかけられ、 籾(もみ)になり、この籾の殻を取ってやっと玄米になり、玄米を精米して始めて米になるのだった。
そして脱穀後の藁(わら)はこれも大事な収入源で、17縛りを一束(いっそく)と言って、これを畳業者さんが一束40円ほどで、大きな幌のトラックで買取に来るのだが、この頃のアンパン1個の値段は15円ぐらいか・・・・、今のお金にしてみれば、家は藁だけでも40万円近くの金額と同等な収益を上げていたのだろうと思う。
ここまで苦労して作った米、さぞかし今から思えば儲かったように思うのだが、その割には「秋のお祝い」と言う収穫祭があっただけで、全ての農作業が終わっても、せいぜいが「おはぎ」を作るくらいで、今度は炭焼きと言う具合に、家の家族は働きっ放しだったし、子供たちにも特に何もおこぼれがなかった。
私は、休んでいると何となく罪悪感を感じるのは、こうした貧しい水飲み百姓の生まれだったからかもしれない・・・。
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