2021/02/21
「飢え」
千葉県鴨川市から館山へ抜けるルート128号、この途中に江見海水浴場が在り、現在は閉じられているが、海から少し離れた土手に座り、113円のコンビニおにぎり2個を微糖コーヒーで流し込みながら、打ち寄せる波を見ていたら、自分でも気が付かない内に、右目から涙が流れていた。
以前に比べ「死」と言うものに関係する機会が増えた事は確かだが、そんなに悲しい訳でもないのに、何も思っていなかったのに、それでも人間は涙が流れる事が有る事を知った。
また少し前までは「死」などそんな恐れてはいなかったが、この数年異様に「死」が恐ろしい。
それも自己と言う存在の消滅に対する恐れ、と言う高尚なものではなく、単純に痛いのではないか、苦しいのではないかと言うリアルな苦痛に対する恐れだ。
それゆえ少し年上の人と話をする度、「死は恐くないですか」と訪ねるのだが、大方の人は私より死との距離が遠いか、曖昧なようで、明確な答えは帰ってこない。
生きている人間にとっては誰も経験した事が無いのだから、まあ無理もない事だし、いきなりそれを聞く私が間違っているとも思う。
だが、こうして「死」を考える時、どうしても思い出すのが「Agnese Gongea」(アグネス・ゴンジャ1910~1997)と言う女性の事だ。
「マザー・テレサ」と言った方が良いか、いや、それすらも今は多くの人に忘れられているかも知れないが、彼女がハーバード大学で行った講演の衝撃は、今以て瑞々しさを失う事が無い。
貧困でパンが食べられない事だけが「飢え」ではない。
誰からも必要とされない、誰からも愛されない事に対する「飢え」こそが最も深い「飢え」だと言った、あの低いがずっしり響くラテンなまりの言葉を聞いた時、愕然としたものだった。
仏に祈って極楽浄土へでは、現状が肯定されずに、曖昧な未来にそれを先送りしたに過ぎない、そう思っていた私に取っては、今死に行く者が最も必要する事が自己肯定だろうし、生まれて親すらもいない子供、障害を持つ人に最も必要な事は、「あなたは必要な人なんですよ」と言う祝福だと言うアグネスの言葉は、まさに救いそのものだった。
後世、修道女は看護資格を持たないから、医療ミスも多かったとする意見も有ったが、そもそも医療ミスの段階にすら至らず、死んで行く人の多かった事に鑑みるなら、それは現実に対する忠実さだったとも言える。
現在の日本は昔のカルカッタ程貧しくはないだろうし、飢えで死んで行く人も少ないだろうが、親を施設に預け、そこでは確かに孤独は無いかも知れないが、多くの人に囲まれながら孤独になってはいないか、自己肯定出来て、死んで行けるだろうか・・・。
施設へ入れる事が本当に親に対する愛だろうか・・・。
情報は発達し、多くの友に囲まれているように思っているが、その中で孤独を感じてはいないだろうか。
心を、優しさを、愛を求める根底に「飢え」は潜んでいないだろうか・・・。
幸い探したらYoutubeにマザー・テレサの動画が残っていたので、貼り付けて措いた。
これを観てどう思うかは自由だが、この機会に「自分が飢えていないか」「世の中が飢えで一杯になっていないか」深く、考える機会にして頂ければと思う。
(注・ゲストのコメントは聞く価値が無いので飛ばした方が良い・・・)
動画中、ベイルートの子供たちの救出の話が出てくるが、「この時マザーの祈りが通じたのか、翌日戦闘は収まった」と言う解説が出てくるが、これは誤りで、アグネスがイスラエル、パレスチナの両方の将軍に直談判し、停戦が成立したのである。
訂正しておく。
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コメント
俺はインディアンじゃ無いけれど
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インディアンの言葉に:<家族>わしらにとって、家族とはとても大切だ。家族全員が、子供たちに責任をもつ。母親と父親だけでなく、すべての家族、祖母、祖父、おば、おじ、姉、兄たちが、みんな子どもたちに教えるんだ。彼らはみんな、お互い気遣い合っている。わしは、政府が長老たちのために老人ホームを建てたのを見て、悲しくなった。いかにも白人らしいやり方だ。長老たちは家族の中心で生きるものであって、ひとりぼっちで死ぬのを待つものではない。長老がいなければ、それはもう家族ではないんだ。家族なしでは、人は何者でもなくなる。大地から離れて根付くことも芽吹くこともできに、風に飛ばされる種と同じだ。家族はわしらの花壇だ。魂の花壇なんだ。
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マザーテレサはノーベル平和賞を受賞した…が…アウンサンスーチー、金大中も受賞、玉石混交。死んでから授与した方が良いかもww
2021/02/21 22:11 by ハシビロコウ URL 編集
コメント、有り難うございます。
アグネスの言葉は今の日本人にはとても重い形でのしかかっているように思います。
形骸化し、表面的な美しさの下には無関心や残虐が潜んでいる。
仏教の来世で極楽は、現在の一生がそう大したことが無い、或いはとても厳しかった。
それゆえ次に逃げているだけの事かも知れません。
今現実に死に直面する者に取って大切なのは、極楽に行って幸福になると言う約束手形よりも、即時の現金だろうと思います。
つまり、今のあなたは大変価値が有り、有用でした。
人から求められる人でした。大したものです。
こう言う自己肯定だろうと思います。
何もなければ、私があなたを必要としました、と言う一言でも違うかも知れない。
現実に真っ向から直面して行ったアグネスの言葉はとても重いものだと思います。
彼女はノーベル平和賞をそっくり金に換え、人々の救済の基金にしましたし、祝賀パーティすらも現金で求め、それをやはり救済のための基金にしたように記憶しています。
ある種の筋金入りでした。
先の千変万化を恐れず、常に現実に忠実に行動する。
どこかでは「禅」や孫子にも通じる気がします。
コメント、有り難うございました。
2021/02/22 20:19 by old passion URL 編集