「カルマ」業の解釈

紀元前1200年~紀元前800年、インダス文明後期、末期の記録には既に「業」(カルマ)の概念が出現しているが、この時の概念は「action」、つまり行動や何らかの動き全体を指していた。

この概念が著しく変遷して行ったのは「ヴェーダ」「リグ・ヴェーダ」に始まっていた「業」(カルマ)に対する紐付けが、学術的体系を為してきた紀元前600年~紀元前400年頃と考えられる。

仏教の基礎宗教で有るヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教などの出現に拠って、理論体系が組まれて行った経緯を持つが、この理論体系は現在でもそれらしく見えるが、基本的には人間社会の概念を出ない範囲で構成されたものである。

東洋哲学は「偶然」を嫌う。
それゆえあらゆる結果には「因」が在るものと考えられ、因果応報、善因善果、悪因悪果と言う凡庸で窮屈な考え方が、恐らく理論的には見えたのだろうが、支持されて行った背景を持つ。

だが、人間社会は悪人の上にも陽が差し、善人の命も奪われる事を知っている。
それゆえ、その結果が逃れられないものとする理論が必要になり、ここに前世、現世、来世と言う三層仮定理論を拡大して、この現世に措ける矛盾を解決しようと考えた結果、発生してきたのが輪廻転生の思想と言える。

更にこうした思想は、それが権威的信頼を得る為、複雑な理論に細分化され学問的な様相を為す事で、人心を得て行った経緯を持つが、基本的には子供の「ままごと」が回を重ねるごとにリアル感を得て行く過程、田舎の無学な若者が共産思想の理論的な部分に憧れ、それをして自身が知性を得たと勘違いする過程に同じである。

元々生物がその個体を維持するのは至難なのが普通であり、明日を生きられるかどうかが決定していないのは、文明社会も自然界の動物も同じである。
この中で、善行を重ねても報われない時、その整合性を保つために、前世での行い、来世に備えた修行と言う事で、現世の理不尽を解決しようと考えた訳である。

ここでは良い行いをすれば、結果は良い事が起こる事になるが、現実の社会では良い行いが必ずしも良い結果になるとは限らず、邪な考えだからと言って、それが成就しない訳でもない。
その場合、前世にまで及んで現在を測るなら、大部分の事は整合性を保った解釈ができるが、この理論で言えば人間の数は初めから終わりまで一定量になる。

客観的に見れば、人の一生全てが茶番劇のような話になるし、生まれて間もなく死ぬ運命の者は、それを仏に悲しまれても救われはしない。

「業」(カルマ)の始まりは「action」、そこには何の意味もなく、また眼前に広がる現実に対する対処、その結果までは問われていなかった。
つまり元々「偶然」である事象の結果は「偶然」と考える自由さが感じられるが、これに網をかけて捕まえ、色んなものをくっつけて重くしてしまった為、それまでは空を飛んでいた「業」(カルマ)が、人間に拠って鎖で地表に繋がれた。

紀元前600年~400年頃に発生してきた宗教が「業」(カルマ)の自由を奪い、運命と言う重いもので縛り付けたとも言えるのかも知れない。

売名を目的に為された親切は、行動にした瞬間から自分の手を離れて他者の手に渡る。
他者が有り難いと思っても、それは悪のままか・・・。
反対に純粋な善の心が愚かなら、その結果は悲惨な事態を引き起こす。

努力しても努力しても報われない事を、前世に逃げたところで何も解決はしない。
良い行いをしていても報われず、ずるい事をしている者が栄え、力を以て善なる者を踏みにじる事も有れば、善人が報われる時もたまに在る。

単なる偶然で有り、そこには何の意思も意味もない。
ましてや辛い現実を来世に報われる事をして逃れたところで何になる。
生物に措けるチャンスとは確定していない未来に在るのではなく、この眼前に広がる現実、今を於いて他にはあり得ない。
古代文明の「業」(カルマ)はそう言っていたのではないだろうか・・・。

「業」(カルマ)は「action」、何らかの行動、動きであり、それをして先がどうなるかは決まってはいない。
が、確実に何かが動き始め、或いは広がり始めた、そう言う事だったのではないだろうか・・・。

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