「非難と評価」

誰かが僅かでも瑕疵を犯せば怒り心頭に陥りそうな、蒸し暑い梅雨明け直後の日、父親の薬の処方箋を手にした私は、公立病院の支払い窓口で、支払いの順番を待って並んでいたが、自分の順番が来たかと思ったら、横から高齢の女性がするすると割り込み、それに対して窓口の係員女性は、割り込みはいけないと注意した。

しかし、どうせもう半日は仕事にならない私は、「良いから、良いから」と言って、順番を譲り、ついでに後ろに並んでいる人にも順番を譲る為、列から離れて近くの椅子に腰を下ろした。

やがて並んでいる人がいなくなった頃、自分の支払い明細を窓口に出した私に、係員の女性は「お待たせして済みません」と、申し訳なさそうに頭を下げて、支払い伝票を受け取った。

「公序良俗」はそれを理解できる人以外は通用しない。
「法」も同じだが、社会に措けるルールとはそれを理解できる、もしくは判断できる者が被り、それを理解できない者に対しては社会的道義がこれに優先される。

割り込みを行った高齢女性は、順番を譲った私には目もくれずに、黙って支払伝票を窓口に出し、周囲は見えていなかったし、そもそも私が順番を譲った事すら理解できていなかった。
まったく自分しか見えていないのだが、こうした人に「公序良俗」や社会のルールを説明しても、既に理解ができない。

既に社会的には「心神喪失状態」「認知不能」なのであり、この場合は社会が彼らを擁護する義務を負う。
すなわち、順番を割り込まれた私は、社会的道義を優先して、高齢女性に対応しなければならないのである。
状態としては認知症の人に、「よくも私の前に割り込んだな」と言って、どうにかなるかと言う話に同じなのだが、この場合は怒っている人の社会的道義が疑われる。

「公序良俗」の判断がつかない高齢者等は、これに準ずる存在なのであり、この場合は怒っても意味はなく、むしろ社会的弱者、被擁護者なのである。
同様の事は一般民法、刑事責任能力に対しても言え、一昨年4月、東京池袋で発生した旧通産省工業技術院長「飯塚幸三」被告が起こした暴走事故、この裁判に措ける社会的非難にはバランスが必要と思われる。

飯塚被告は精神疾患や心身喪失状態ではないが、既に高齢で歩くのもやっとであり、もう社会と自身の関係に対し、正常な判断ができる知的判断能力を失っている。
それゆえ自己保身に必死になっていて、周囲も見えていない。

これは高齢者特有の社会的判断の欠落状態であり、直接の被害者であれば、社会的道義を超えての心情も理解されるが、まったくの部外者、俳優や芸能人、お笑い芸人が、飯塚被告の責任能力を自身と対等と考え、これを唯非難するのは、若干の違和感を感じる。

飯塚被告は刑事責任、民法上の責任を免れないが、同時に体の不自由な高齢者であり、判断能力は劣っている。
この状態で社会は飯塚被告の責任を追及する姿勢も大切だが、同時に社会的道義、すなわち弱者や高齢者をいたわり、それの尊厳にも配慮する必要があるのではないか。

社会全体が飯塚被告の非難に傾斜し、人としての道義的な部分を顧みる者が1人もいないと言うのは、危うい社会だと思うゆえ、日本でたった1人かも知れないし、非難を浴びるかも知れないが、私は飯塚被告の罪は罪、その上で高齢者と言う配慮も必要なのではないかと言うことを申し上げておく。

あと1点、今をときめく「西村康稔」経済再生担当大臣だが、発表した政策をすぐに方向転換して非難を浴びているが、元々政府関係部局が方針を転換する機会は少なく、ために間違っても爆走するのが政府の中に在って、これはこれで見るべきものも在る。

人間は常に正しい選択ができるとは限らず、これは市井の我々から大臣まで同じである。
それゆえ間違ったら正せる事は重要な事であり、その意味では即刻方針を変換できる環境は悪いことばかりとは言えない。
むしろ1点の瑕疵も許さず、僅かな失敗も常に非難される社会は硬直化した社会とも言える。

人間は事の始まりから「矛盾」や「理不尽」なものであり、公の正義と私の正義、公の自由と私の自由は相反する。
そうした中に在って、前述の飯塚被告では「法」「責任」と、彼が体の不自由な高齢者であると言う状態から来る社会的道義が対立し、西村大臣のケースでは政府と言う在り様の重さと、誤りを訂正できる自由度が相反する。

この状態でどちらか一方しか評価されないとしたら、その社会はファッショ、恐怖政治に近いものにしか見えなくなる。
公と個人、あらゆる事象には多面性が在り、その事を忘れない社会は評価と非難が混然としている状態をして、正常と言えるのではないだろうか・・・。

今の日本の社会は極端であり、この意味では周囲が見えない高齢者と同じかも知れない。

無秩序を犯す高齢者をただ責めまくるのは、その高齢者が犯している瑕疵と同じものを、自分がやっていると考えるべきなのではないか、そう思う故、正常な社会に鑑み、私1人でも飯塚被告を擁護し、西村経済再生担当大臣を評価して措く。

[本文は2021年6月14日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]


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