2022/11/05
「国 葬」
古来より政治の理想的な状態と言うのは、政策に対して賛同と反対が半分ずつと言う形と言われていて、民衆が政治から関心が無い状態を頂点とする、そう言われている。政治は調整機能だから、100%の大衆に対して政策を実行すると、凡そ半分の人がその政策に拠って恩恵を受けられず、次に残りの50%に対して半分の25%が望む政策を打ち出し、と言う具合にして行けば、最後は0.781145%の反対を残して全員が賛同になる原理だが、実は残った反対意見を賛同にするには、元々賛同した半分にある種の妥協を求めて行く形になる為、50%対50%の最初に出した政策にどれだけ妥協案を追加しても大きく変化しない。
賛同、反対意見共に曖昧さを増やして行くに過ぎない。
つまり政策に対する多くの調整案は余り効果が無く、本来政治に不満が無ければ民衆は政治の事を考えず、民衆が政治に関心を持つと言う状態は、政治の状態があまり良いとは言えないと言う事である。
1992年8月、「金丸信」自民党副総裁の5億円闇献金問題が発覚した。
俗に言う「東京佐川急便事件」だが、ここで東京地検特捜部は金丸氏に出頭を求めたが、金丸氏はこれを拒否し、代わりに上申書を提出し、罰金20万円の略式起訴で問題の解決を計った。
これに対しては検察庁内部からも批判が続出、国民の不満は頂点に達した。
これより少し前に発生していた1992年3月の、栃木県足利市で公演中の金丸信副総裁襲撃事件、金丸副総裁が右翼青年に拳銃で襲撃された事件などは、こうした一連の政治資金規正法違反に関係していたものの先駆けだったと見られている。
国会議員が民衆に示す民主主義とは、正規の手続きに拠って問題の解決が計られた事しか担保できない。
一般民衆なら刑事訴追の上収監、と言う事態が自民党副総裁なら罰金で済むと言う在り様では、国民の不満は大きくなり、その中で個人の事情が増長したものが増加している経済的停滞、或いは災害などが存在する場合、個人の事情が先鋭化した者の数も多くなり、そうした不満が明白に正義を歪めた国会議員の襲撃などに向かい易い。
こうした事態の責任は、本来正規の手続きを踏まなかった本人もそうだが、検察などの三権分立の一角に在る組織、国会に措ける責任の会見、野党の追及が正しく機能し、正規の手続きが為されていれば、避けられる問題とも言える。
2022年7月8日、安倍晋三元総理が奈良県で「山上徹也」に拠って銃撃暗殺されたが、安倍元総理は森友、加計問題では終始言葉で逃げ、花見問題でも同様だった。1992年の金丸信副総裁と同じ疑惑にも関わらず、また途中財務省職員が事件に関して自殺している事も、今では国民も忘れているのかも知れないが、そう言う疑惑に対して国会の追及は封殺され、検察も手を出さなかった。
また旧統一教会との関係など、政教分離など全くの無視状態と言える。
安倍元総理は既に総理の任期を終えていて、加えて日本の総理など狙う価値もない事を考えるなら、今回の暗殺事件は疑惑に対して真摯に向かい合わなかった国会と検察庁、それに政教分離の大原則を甘く見ていた安部元総理自身の、国会議員としての脇の甘さも一因したのではないかと思う。
しっかり皆が責任を以て働いていれば、こうした事態は発生しなかったのであり、SPに責任を転嫁する岸田総理の在り様は、自身の事を棚に上げた責任逃れの醜さも感じるが、政治家と言うものはこうしたものであり、国葬も悪くないだろう・・・。
少なくとも選挙活動中に殺されたのだから、国会議員と言う立場からすれば「殉職」と言える。
国家が葬儀を営むことは問題ないと思う。
野党の言う生前の政策を認めさせる事や、国民に弔意を強制と言う話は筋違いだろう。
別に嫌なら葬儀に参列する必要もないし、黙とうをする必要もない。
それを為さなかったからと言って刑事罰が下される訳でもないのだから、強制にはならない。
それにしても、こうして国葬と言うフレーズを聞くと、かつて昭和天皇に謁見したおり、「今日は大変な人に会った」と頬を紅潮させて領事館に帰ってきたと言う「鄧小平」の事を思い出す・・・。
「私の死くらいの事で人民の経済活動を止めてはならない」
「葬儀は行なわなくてよい、休日にもしてはならない」
「死んだら体は献体するので、使えるものが在ったら使ってくれ」
[本文は2022年7月16日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]
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