濁り水

「近江屋・・・、その方も悪よのう」
「ひゃっひゃっひやっ・・・、何を仰いますやら、お代官さまこそ、相当なものでございますよ」
「ところで近江屋、例のものは分かっておろうの・・・」
「へへぇー、それはもうこちらの方に」

そう言って近江屋は重そうな木箱を代官に渡し、その中は黄金に輝く小判がざくざく、それからまた近江屋が手をぽんぽんと叩くと、隣の部屋の襖が開き、そこからは綺麗どころが次から次・・・.
ご存知時代劇に良くある悪代官のシーンだが、実は私はこうした役を一回で良いからやって見たいと思っているのだが、なかなかチャンスに恵まれなくて残念に思っている。

さて、今夜は悪名高き賄賂老中、田沼意次(たぬま・おきつぐ)の話にしようか・・・。

「田や沼や、よごれた御世を改めて、清くぞすめる白河の水」
民衆が余りにひどい世の乱れを嘆き、老中田沼意次の政治に失望して歌ったと言われている詩だが、後ろの歌はこの後老中になった松平定信に、大きな期待を寄せたものとなっている。

しかしこの歌には更に続きがあって、それはこうなっている。
「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」
何とも身勝手な話だが、松平定信の政策は武士偏重で、民衆が軽んじられた政策だったことから、こんなくらいなら田沼の方がまだましだったと言っているのである。

田沼意次がその政治的手腕を振るった期間は、1767年から1786年までのおおよそ20年、この長きに渡って徳川幕府を仕切ったのだが、既に8代将軍徳川吉宗の時に新田開発や農業改革は終わり、しかもそれほどの成果も上がっていなかったことから、幕府の財政は火の車、これを何とかしようと奮闘したのが田沼意次である。

田沼がまず最初に行ったのは商業を使って財政を立て直そうとするものだったが、こうした中でも田沼は「重商主義」と言う考えに基づく政策を取っていく。
実はこの考え方には根幹がないのだが、例えば今でも貿易黒字などと言う言葉が示すものは、本当は意味がないのと同じことで、言うならば、商店が駄菓子を売ったら、商店はその駄菓子分が利益で、それを買った客は駄菓子分を損する・・・、とした考え方を基本とするものだ。

田沼は商業資本を使って幕府財政を潤そうと、まず株仲間制度を積極的に承認し、そこから運用金(税金)を取ることを図り、外国との貿易拡大を行い、そこから金、銀の確保を画策、貨幣制度の見直しにも着手していたが、その際新しく鋳造された貨幣は品質が悪く余り流通しなかった。

また取り分け田沼の政策で評判が悪かったのは、利根川水系の印旛沼干拓や、蝦夷地の開発だったが、これは前者が毎年氾濫して甚大な被害を与えていた利根川の治水が目的であったし、後者はロシア貿易を見据えたものだったのだが、「意味のないことに金を使って・・・」と言う反発は、民衆のみならず、幕府内部にも多かった。

そしてここからが田沼の本領発揮と言うところだが、「田沼さまは袖の下を振るのも日本一」は言わずと知れた公然の秘密で、幕府や役人に言っても取り上げてくれないことでも、金さえ持って行けば田沼さまがきっと何とかしてくれると言う、大変オーソドックスだが判り易い形態で治世を行っていた。

そのため民衆や幕府、諸大名でさへ田沼には貢物、「現金」を一番喜んだとされているが、そうしたものを持参するのは当たり前になっていたようであり、田沼の屋敷には皆が順番となって待っていたと記録が残っている。

そしてこうなれば、一般的には豪邸に住み、金ピカ衣装で毎夜綺麗どころの所に出入りし、カンラカラカラ・・・、と言うのが普通だろう。
だが、どうやらこうした意味では、私達は田沼意次と言う人物を、大きく誤解している部分があるのではないだろうか。

実はこうした賄賂漬けの政策を行いながら、田沼の暮らしは至って質素そのものだったようである。

浅間山の噴火によって火山灰を被り、大幅な気候変動に見舞われ発生した「天明の大飢饉」(1783年~1787年)、これは実に4年にも及ぶもので、東北地方をはじめ、全国各地で40万人とも言う餓死者を出し、加えて重商主義は大商人を生むことにはなったが、その反面農村部にも商業高利貸資本が流入し、農村部は壊滅状態となり、そんな中で人々の不満は田沼意次やその子、田沼意知等に向けられ、1784年には田沼意知が、殿中で旗本の佐野政言によって切り殺されるが、その理由は個人的な恨みであったとされている。

そしてその2年後1786年、どうにも解決の見えない「天明の大飢饉」、その飢饉下での政策はどれも裏目にしかなならず、ついに田沼意次は老中を罷免されるが、その際松平定信によって没収された田沼の家には、本当に粗末なものしか置かれていなかったことが資料に記されている。

田沼が一生懸命受け取っていた賄賂、それはどこへ行ったのかと言うと、全て幕府の苦しい財政のために使われていたのだった。
まるで汚職の権化、田沼意次は自身の評判が悪くなることを承知で賄賂政治を行い、その金は公金として使っていた訳である。

ただ、こうした事実は一般大衆の知るところではなく、またたとえ大名や幕府幹部でも知るものが少なく、そのため表面上は汚職の権化とされるのは致し方のないことだった。

田沼意次が罷免された後、次の老中となった松平定信、民衆から期待が大きかった彼は田沼政治を完全否定し、商業主義から伝統的な武家政策を敢行し、その改革を「寛政の改革」と言うが、この改革は散々な失敗に終わる。

失脚後、減俸処分を受け、陸奥に配転となった田沼意次の生活は悲惨なものだったが、彼はそこでも飢饉に苦しむ人々のために、炊き出し用の米を寺に寄進しているのである。

やり方はめちゃくちゃだが、私はこうした男が決して嫌いではない・・・。





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