2011/02/11
「火葬場からのお呼び出し」・Ⅰ
こんなことを書くと不謹慎だが、私は幼い頃葬式が好きだった。いや私だけではない当時この付近に住んでいた子供達はおそらく葬式と言うと皆心躍ったに違いない。そもそも小さい子供にとって、葬式、結婚式、祭りは同じものだった。
親戚や人が大勢集まり、ご馳走が食べられ、お菓子が貰える、こうした条件が満たされるものは内容が何だろうと区別がつかなかったのである。
だから家で大人達が、どこそこの爺さんが危ないらしいとか言う話を聞けば、悪ガキ共の間にはすぐに情報が広がって、不道徳だが皆心待ちにしていたものだ。
この背景には人の死に接する機会の多さ、人はどう言う過程で死んで行くかをつぶさに見ているか、いないかと言うことが関係している。
1970年代頃まで、私の村ではどのような人も病院で死ぬことなどまずなかった。
事故以外はみんな家で死んでいったのである。
ご飯を食べに来ることができず、食事を運ぶようになり、その食事も食べることが少なくなって話ができなくなる。
やがて寝たままになり、どんどん痩せて骨と皮だけになっていく、そして呼んでも返事をしなくなり全く動かず、ただ呼吸するだけになる。
この頃になると家族は家の掃除を始め、そしてついに呼吸が止まる。
こうしたプロセスを当時の子供はしっかり把握していたのである。
死は瞬間のように思うかも知れないが、それは呼吸が止まったと言う一つの段階に過ぎず、実際は緩やかな流れのようなものであり、それを漠然とでも理解している者にとっては、呼吸が止まるかなり前から死とそれに対する悲しみが始まっているのである。
施設や病院に入れてこうした死のプロセスに接することのない現代では死は突然やってくることになり、それに対して悲しみの感情を現さない者は何かひどく人間性を失ったかのように見えるが、葬式の時に始めて悲しくなる方がどこかで身内の死に対するあり様の幼さを感じさせる。
また死に対するあり様は同時に生に対するあり様でもある。
貧しい時代、貧しい地域にあるものは死に対面する機会が多く、死が現実以上の重みを持たないが、その現実は生の持つ意味が自身にとって絶対無比なものであることを体感させる。
しかし豊かな時代、豊かな地域にあるものは死に接する機会が少なく、為に死を大きく捉え、このことが生に対する過剰な期待となり、しいては怯えになっていく。
そこでは形なきものに形を見て、力なきものに力を感じ、その幻影に自身が支配され生は影が薄くなる。
更に時間を多く持つ者が死を単に知識やシュミレーションで知ることは、現実の生と死からの逃避にしかならず、こうした生と死に付いて深く考える者は必ず生きる気力を失う。
生と死は現実のみを把握し、そこを素通りできる者だけが、知識ではなく感覚として理解できるもので、何も考えない者ほど良く知ることができる。
1970年代頃まで葬式は基本的には祭りだった。
村のどこかで死人が出ると、各家々から人が集まり長老を中心にして葬儀の段取りが始まるが、料理担当、火葬担当など事細かに打ち合わせされ、現代社会でセレモニーホールがやってくれることを全て村の共同事業でやっていくのである。
死者と言うのはたまに生き返ることがあり、こうした場合のことを考えて1日か2日置いて火葬することになっているが、その間に来るお客、僧侶には料理や酒が振舞われ、久しぶりに集まった縁者の子供達にとっては盆、正月以上の大イベントだった。
死者は彼の子供、兄弟などによって体をアルコールで拭かれ白い死に装束を着せられ棺桶に入れられるが、この当時の棺桶は文字通りの桶で、死者は膝を抱えた形でこの桶に入れられ、桶の蓋に釘が打たれるのは出棺直前のことになる。
この時、死後硬直で死体が桶に入らない場合は足の骨を折って桶に入れたが、こうした事態になることを避ける為、死後間もない内に膝を抱えた状態にして帯などで結わえたり、膝を抱えた形で寝かせたりして桶に入れやすいようにしておくこともあった。
「火葬場からのお呼び出し」・Ⅱに続く
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